私が今の仕事にたどり着くまでの話 Vol.5

前回までは、私の新人時代の話でしたが、今回は新人最後の3ヶ月。1985年1月からの話です。

1月からの人事異動で「北関東支社」に配属になりました。北関東支社と言っても拠点は浦和。担当エリアは埼玉県。当時は東京の他に「横浜支社」がありました。
配属されたメンバーは私を含めて4人。(のちには年間供給2000戸、埼玉県供給戸数No1になるリクルートコスモスを支えた支社になります)
H支社長、I営業課長、M企画開発課長に新人の私です。地元採用で経理庶務等でOさんを加えて総勢5名のスタートでした。

実は配属の内示を12月に受けた時には当時のK専務から「埼玉に支社を作る。社員は4人。事務所は君たちが探せ。以上」という、お達しがあっただけでした。
当時のメンバーは支社長は福岡出身でしたが、他は全員埼玉出身者。不動産ビジネスだからある意味正解でしたね。みんなエリアのことな詳しいですからね。

私は蕨駅前150戸の大型物件の営業責任者だったのですが、新人だったので総務の仕事も含め何でもやりましたね。支社長の運転手もやりましたね。「手袋買ってやろうか」とも言われました。
支社の場所は我々の意見で浦和駅西口徒歩3分の新築の事務所にしました。人が増えることを予想して50坪のフロアを確か借りたと思います。

事務所のパントリーの品物を揃えたりトイレのタオル交換をしたり、、。その時思ったことは「仕事は段取りが大事」ということ。これは今になっても有益な経験でしたね。

この事務所ですが、空調が効いてなくて、夏は暑く冬は寒い。冬は1人に一つ石油ファンヒーターを机の近くに置いて仕事をしていました。

マイカー通勤もルールがあるやなしやだったので、物件に行くことを考えて車で異動していましたね。


その2月1日から「株式会社リクルートコスモス」に社名変更しました。
「環境開発株式会社」から「株式会社リクルートコスモス」に変更することになりましたが、電話での応対が恥ずかしくて、、当初はなかなか鳴っている電話に出ることを躊躇したことを覚えています。

さて、仕事ですが、私が担当した買って「コスモ蕨」は、蕨駅徒歩3分、当日は画期的なワイドスパンのキュービックプランが売りの商品力の高い物件でした。仕入れ担当は武蔵さん、設計担当は高橋新さん、という、当時は凄いメンバーの仕事でした。

営業責任者は私。初のLA物件でした。LAとはコスモスでの女性販売部隊「リビングアドバイザー」のことです。当時は何と「レディース」と言われており、人なのよっては「私はレデースです」と言っていた方もいましたね。
30年以上も前からリクルートグループは女性活用を積極的に行っていましたね。
私が20代半ばでしたが、彼女たちは私よりも世代が上の営業マンでした。
とにかく頑張る人が多くて、辛いこともありましたが、楽しかったですね。

私の現場責任者なので、みんなに頑張ってもらうことと新しく入った方には営業を教える、ということをやっていました。
私の責任が重い仕事に集客がありましたが、集客が出来ないとLAさんたちに売ってもらうことも出来ない。集客が出来てこそ次に進む。
当たり前のことですが、毎週続けて行くためには社外の方々の協力があってこそ。
当時から広告代理店の方々や看板広告の方々とも仲良くやらせて頂きました。今でもお世話になっている方もいらっしゃいます。

「コスモ蕨」ですが、駅徒歩3分で150戸の大型物件でした。モデルルームは敷地の一部か隣で線路沿いなので目立つ場所の物件でした。
普通なら大型物件らしく広告を派手に打ち出すことをやりますが、競合の「ルネ蕨」という物件がコスモ蕨の先にあり、ルネ蕨の方が300戸くらいの大型物件で毎週広告を大々的に展開してもらえたこともあり、我々は小判鮫での集客をやり続けました。
リクルートの週刊住宅情報を月に1回、現地に目立つ看板を付ける。チラシはほとんどやらなかったです。上司から言われた訳でもないですが、自分で納得して小判鮫をしていました。それでもそれなりには集客が出来ていました。
競合物件と間違えでモデルルームに入ってきたお客様を知らん顔をして接客して気に入ってもらう手法も結構やっていましたね。

60㎡のワイドスパン。間口8m奥行8mの南面三室。今だと全てが狭いプランですが、当時は洗面や浴室が一回り狭く、究極のプランと呼ばれていました。

しかも逆梁のハイサッシ。リビングには梁の出ないアンボンド工法。外壁はタイルは貼ってなかったですが当時の埼玉ではグレードは高かったです。

販売の坪単価は当時の埼玉県の最高値の@135万円。グロスは2400万円程度に最多価格帯をしました。
当時、国土法事前確認と住宅金融公庫の事前申請が必要でしたが、コスモス社内での経験者はおらず、私が自分で書類を作成しました。
国土法事前確認の担当は浦和土木事務所で、当時の担当者は「売値が高いが売れるのか?」というやりとりを何度も繰り返し、遂には本広告の入稿期限ギリギリになってやっと認めて頂きました。(私が高校の後輩だったことが良かったみたいでした)
後のバブル期では埼玉県の浦和、川口、大宮あたりの価格が千葉や神奈川と比べて安く抑えられていたのは、この担当者が認めないから、という嘘のような話がありましたね。

コスモ蕨は良く売れました。
LAさんもベテランの方が多く、私は集客を頑張っていればあとは売って頂ける、というある意味楽な環境にいましたね。(スキルという意味で楽でしたが、コミュニケーションは勉強をさせて頂きました)

私は2年目の秋から北浦和徒歩6分の「コスモ浦和常盤」という99戸の物件を担当することになりました。
この物件は当時は経験の浅いLAさんとの仕事でした。
こちらは、当時にしてはグロスも3000万円を超えていて、売る苦労を経験出来た良い物件と良いメンバーだったと思います。
12月が販売の初月で、40戸の販売目標まであと3戸くらいだったと思いますが、クリスマスイブにもLAさんと宅訪に行っていました。
目標を追いかけていたので、そんなことは忘れていたのですが、当時の支社長から電話を頂き、「クリスマスイブに宅訪なんて凄い!」と褒められたことを覚えています。

さて、今回はここまで。